フラメンコ・ギターの世界で

“リカルディスモ”

という言葉が流行った時期がありました。

名匠ニーニョ・リカルドの生前

没後を通じて強く影響を受けた人々が

彼の作り出したファルセータ

(ギター演奏のために編み出された旋律)

を好んで奏でる傾向を指して、“リカルディスモ”という言葉が使われました。

リカルドに影響を受け

一番弟子と言われたギタリストに

ホセ・マリア・パルドというギタリストがいます。

また

セラニートもマノーロ・サンルーカルも

あのパコ・デ・ルシアも

出発点はニーニョ・リカルドにありました。

ニーニョ・リカルドは

ラモン・モントーヤ以後

数歳年若のサビーカスと並んで

同世代及び次世代のギタリスト達に

最も大きな影響を与えた人でした。

彼自身が残したソロ・伴奏の音源を通じて

彼をしのぶファンは今でも少なくありません。

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ニーニョ・リカルド。

本名Manuel Serrapi Sanchez(マヌエル・セラピー・サンチェス)は

セビージャのサン・ペドロ広場生まれです。

父親は指物大工の職を持っていましたが

一家の暮らし向きは決して裕福ではなかったようです。

少年時代のリカルドは

炭焼きやエナメル職人の見習いをしながらギターを弾いていました。

この頃は炭火焼をしていたことから

自ら「マノリート・エル・カルボネーロ」と名乗っていました。

仲間内で夜明けの4時までギターをひき

6時にはもう炭を焼くために起きなければならなかったこともあるようです。

そんなリカルドにとっては

エナメル職人の間のストライキほど嬉しいことはなかったとか。

なにしろ、その時ばかりは、心置きなくギターにふけることができたのですから。

リカルドにギターの手ほどきをしてくれたのは、

職業からも器用なひとだったと知れる父親のリカルド・セラピ・トーレスでした。

彼は、アマチュアながらも仲間内では

良く知られたギター弾きでだったのですが

リカルドは、ギターを教わってほどなく父を凌ぐ腕前になりました。

そんなリカルドを近隣の人々は「リカルド坊主(ニーニョ・デ・リカルド)」と呼び

それは、後世にまで伝わる彼の芸名となりました。

リカルドが十代の頃

彼がよく伴奏を弾いたセビージャの“仲間たち”には

名声を博する前のペペ・マルチェーナや

ニーニョ・デ・ルセーナ、ラファエル・カニェーテ、ローラ・ラ・マカレーナなどがいました。

13歳の彼が初めて仕事をしたのは

セビージャのエル・サロン・バリエダーデスという

カフェ・カンタンテでした。

そこには当代指折りのギター弾きだった

アントニオ・モレーノ(1872〜1937)がいて

リカルドは第二ギターとして働くかたわら

昔風の気骨を備えた年長者の演奏から得るところがあったようです。

やがて、

同じくセビージャのカフェ・カンタンテである

「カフェ・ノベダーデス」から

リカルドに声がかかりました。

そこの第一ギタリストである

ハビエル・モリーナが病気になり

その代役として

当時まだ16歳だったリカルドに白羽の矢がたったのでした。

リカルド少年の腕前に感心した店主の口添えもあり

リカルドはそのまま

第二ギターとして残り

“ギターの魔術師”と呼ばれて名高かった

フラメンコギター史上屈指の名匠である

ハビエル・モリーナ(1868〜1956)

と一緒に弾くという願っても無い勉強の場を与えられました。

マノーロ・エスカセーナや

パストーラ・パボン、トマス・パボンが彼の演奏を聴き

伴奏者として旅行に連れ出したがったが

リカルドの父親はそれをなかなか許可しませんでした。

が、パストーラ・パボン(ニーニャ・デ・ロス・ペイネス)は

とうとう1年後にリカルドを伴奏者として“借り出し”

14歳も歳の違う二人は、以後23年間にも及び共演を続けました。

1920年〜1930年代にパストーラが入れたレコードの多くは

若き日のニーニョ・リカルドにより伴奏されています。

彼は、ハビエル・モリーナのほか

ラモン・モントージャ、ホセ・ガンドゥージャ・“アビチュエラ”

マノーロ・デ・ウエルバのような名人からも影響を受けましたが

すべての人々が言うように

早くから“自分のしるし”を

その演奏の中に刻み込んでいました。

1940年代からあとの長いこと

ペペ・マルチェーナの後継者の一人で

カンテボニートと呼ばれた大衆音楽

都会派のスタイルで歌い広く大きな人気を博した

ファニート・バルデラーマと親しく付き合い

行動を共にすることが多くなりました。

リカルドは魅力あるファルセータを生むことにおいて天才的な“作曲家”であり

バルデラーマとの共作で

クプレと呼ばれるスペイン歌謡曲の

名曲「エル・エミグランテ(移民)」を作曲しています。

1949年にはバルデラーマと共にメキシコへ赴き

メキシコ市の「エル・パティオ」というフラメンコの店で

サビーカスと共演したこともあるようです。

1950年代後半には主にセビージャのタブラオに出演

1961年からの数年間はフラメンコ風の流行歌手アントニオ・モリーナの一座に加わり

ヨーロッパ諸国や南米にも行きましたが

その間

フランスでギター・ソロのリサイタルも催しています。

ニーニョ・リカルドは1972年4月17日に67歳で生涯を終えています。

スペイン内外への演奏旅行が多かったとはいえ

セビージャを本拠地に持っていた彼は

最後も愛した故郷の市のアルムデーナ街に没しました。

「本質的なものから外れないようにしながらだが、“上向きに”トーケを発展させていかなくてはいけない」

「正しくそれができない者は、ダメになる。昔は今よりももっと平坦に弾かれていた。ラモン・モントージャは、計り知れない才能でギターのあらゆる可能性をつかんだ人だ。わたしもそうした可能性を追求しようとしてきたが、一方ではカディス=セビージャという基本的な一角から離れない線をまもりつづけてきた」

「民衆的なインスピレーションの範囲内での、クラシシズムの精華を自分の芸術はねらっている」

とリカルドは述べています。

アルゼンチン生まれのフラメンコ学者、
アンセルモ・ゴンサレス・クリメンはリカルドの芸風をこう表現しました。

「内に井戸を秘めた万華鏡」と。

※参考文献
・フラメンコ・アーティスト列伝
・Guia del Flamenco de Andalucia
・フラメンコの歴史
・ 現代フラメンコ・アーティスト名鑑